天井に描かれた水墨画、「火焔龍神像」と、世田谷区登録有形文化財に指定されている社殿が素晴らしい東玉川神社を参拝してきました。
<目次>
- 東玉川神社のあるところ。
- 御際神は二柱。
- 向かい合う狛犬。耳の形にも注目。
- 廃社からの再興。紆余曲折を経て現在に至る東玉川神社。
- 向拝天井に描かれている、水墨画、「火焔龍神像」。
- 実際に火焔龍神を見たところ。
- 火焔龍神と絵本「諏訪の龍神さま」。
- 氷川神社より移築された、歴史を感じさせる社殿。
- 参道に敷かれた石畳と手水舎。
- 社殿の左側には稲荷神社が鎮座されています。
- 狛犬の造りは、先ほどとは違ったものになっています。
- 神社の北側にも参道があります。
- 境内にあるもの。
- 関連してそうな記事。
東玉川神社のあるところ。
東玉川神社(ひがしたまがわじんじゃ)。
所在地:東京都世田谷区東玉川1-32-9
最寄駅は、
と、どの駅からも同じような距離で、微妙に遠いと思います。
自由通りの奥沢駅と雪が谷大塚駅の中間ぐらい、東玉川交番の隣に鎮座されています。
神社入口には、東急バスの「東玉川交番前」バス停がありますが、日中に6本程度しかありません。
御際神は二柱。
東玉川神社の御際神は、
○ 建御名方命(たけみなかたのみこと):創建当時の諏訪信仰「諏訪社」の御際神です。
○ 大山咋命(おおやまぐいのみこと):再建時の山王信仰「日枝神社」の御際神です。
創建時と再建時の二柱が御際神とされています。
向かい合う狛犬。耳の形にも注目。
狛犬は、参拝者の方を向いてない、向かい合うタイプです。
頭と胸が大きく、どことなく可愛さも感じます。
腹部にはあばらが浮きでており、狛犬らしい特徴を持っています。
廃社からの再興。紆余曲折を経て現在に至る東玉川神社。
廃社や再興、再建と社殿の移築。たくさんの出来事があったので、年代順に箇条書きにしてみました。
創建年代は不詳(江戸時代初期〜中期に創建されたと思われる)です。
長野諏訪大社から御分霊を勧請して、諏訪社として建立されました。
東玉川神社は、もとは諏訪社と称しており、等々力村の飛地・諏訪分鎮守でした。
「諏訪分」は、諏訪社が鎮座していたからついた名だそうです。
- 文政13年(1830年)に成立した「新編武蔵風土記稿」に諏訪社についての記述があります。
- 弘化元年もしくは、2年(1844、1845年)火焔龍神像が描かれる(絵の左下に年号の記載があるそうですが、僕は確認することができませんでした)。
- 明治41年(1908年)旧等々力村内にあった他の無格社2社(天祖神社・御嶽神社)とともに熊野神社に合祀され、廃社されました。この合祀に伴い熊野神社は玉川神社と改称しています。
- 昭和3年(1928年)社地を確保し諏訪社は再建されましたが、府庁の許可が得られず公認の神社とすることができませんでした。
- 昭和7年(1932年)に諏訪分は東京市に編入。これにあわせ、地名に因み東玉川神社と改称しました。
- 昭和14年(1939年)から翌年にかけて現在の社殿を、渋谷区にある氷川神社から譲り受け移築。このときに、東玉川神社と改称されました。
- 昭和16年(1941年)府庁と協議を行い、野毛の日枝神社を遷座する形で許可を得ることとなりました。
向拝天井に描かれている、水墨画、「火焔龍神像」。
水墨の濃淡によるグラデーションや、繊細な線が創り出す雰囲気が、霊験あらたかな龍神像を描いています。
参道入り口の案内板には弘化2年(1845年)、石碑によれば弘化元年(1844年)、と絵の左下に書かれているそうです(僕は確認できませんでした)。龍神像が描かれた年と思われます。
実際には「東玉川神社」と書かれているので、後から書き直したか、書き加えたか、などなど、どうなんでしょう。。。
実際に火焔龍神を見たところ。
賽銭箱の前に立つと、天井の龍神が視界に入ります。
この写真のように本来は、龍の頭が拝殿側、お腹が参拝者側の向きになります。
火焔龍神と絵本「諏訪の龍神さま」。
はっきりとした答えは見つからなかったのですが、なんとなく繋がりを予想させる本を見つけました。
諏訪の龍神さま。鬼灯書籍(ほおずきしょせき)。
諏訪に伝わる民話を絵本にした本で、4つの民話が納められています。
その中の「信濃には神無月がない」というお話の一節には、以下のように書かれています。
<引用>
ひそひそとつづいていたささやき声はぴたりと静まり、八百万の影がいっせいに天井を見あげました。
「諏訪の神じゃ!」
「なんと! 巨大な龍でござる」
「あな恐ろしや、恐ろしや」
パチパチと火の粉がはぜ、神殿の梁に巻きつく岩のような龍の顔が浮かびあがりました。
絵本なので、龍神の顔が色鮮やかに、大きく描かれている頁になります。
「天井に龍神」と、「パチパチと火の粉が爆ぜている」と言う描写から、東玉川神社の火焔龍神の水墨画が重なります。
とはいえ、この民話では龍神の身体はまだ諏訪の方にあり、東玉川神社の火焔龍神はちゃんと身体まで描かれています。
また、この、諏訪の龍神さま「信濃には神無月がない」は、再話されているので、火焔龍神が描かれた当時にこの民話と関わりがあるかを検証するのは、ちょっと無理があるのかもしれません。
東玉川神社は創建時に、長野県諏訪大社から御分霊を勧請しています。
もしかしたら、そうした経緯から火焔龍神が描かれたのかもしれないですね。
(なんの裏付けもない想像になります。)
こちらの「諏訪の龍神さま」、絵も綺麗でとても素敵な絵本です。
氷川神社より移築された、歴史を感じさせる社殿。
昭和14年(1939年)に、渋谷区の氷川神社の社殿を移築したものになります。
慶長10年(1605年)あたり、徳川二代将軍秀忠の頃の由緒ある建物で、大きな社殿ではありませんが、その細かい作りには目を見張るものがあります。
とくに龍の彫り物などは、髭の部分などが折れてしまいそうで心配になるほどです。
親子の龍が彫られています。
左側の木鼻の獅子が咥えている牡丹は下向き。
参道に敷かれた石畳と手水舎。
境内すべてが石畳ではなく、土も見ることができます。
手水舎の水はコロナ禍に合わせた仕様になっていました。
水が落ちるところに草花を入れておくだけでも、気分が和むものです。
社殿の左側には稲荷神社が鎮座されています。
こちらの参道は思ったより広く長いです。
箒の掃きあとから、隅々まで掃き清められているのがわかります。
緑に囲まれて、稲荷神社も良い雰囲気です。
狛犬の造りは、先ほどとは違ったものになっています。
両狛犬とも、参拝者を見るように首を90度曲げています。
阿形の狛犬は子供を抱え、吽形の狛犬は鞠を持っているようです。
朱が綺麗な明神鳥居。
神社の北側にも参道があります。
こちら側には昔、呑川の支流があったそうで、近くにその支流の暗渠道もあるようです。
ちょっと歩いてみたのですが、にわか暗渠ファンには難しくてよくわかりませんでした。
境内にあるもの。
庚申供養塔。
稲荷神社の隣、北側の参道には庚申供養塔がありました。
つつじの花が咲くと綺麗だと思います。
社殿と火焔龍神像の案内板。
<引用>
世田谷区登録有形文化財(建造物)
東玉川神社社殿(ひがしたまがわじんじゃしゃでん) 一棟
登録年月日 平成二十一年三月三十一日
この社殿は昭和十四年(一九三九年)に拝殿(はいでん)、翌十五年(一九四〇年)に本殿(ほんでん)を渋谷区本町の氷川神社から譲り受けて移築したものです。伝統的な和様の社殿は、地域の歴史を伝える建造物として貴重なものです。
向背(こうはい)の天井板には、弘化二年(一八四五年)、萬遷による「火炎龍神像(かえんりゅうじんぞう)」(正面座臥 ざが)が水墨で描かれています。
あたりを祓う高位尊厳とすさまじさが火焔となって立ち昇り、邪悪を祓う姿を表現したものです。
平成二十三年七月
世田谷区教育委員会
<引用ここまで。社殿と火焔龍神像の案内板より。>
この素晴らしい社殿と龍神の水墨画が、いつまでもあり続けてほしいと思います。
東玉川神社社殿修復落成記念碑。
<引用>
東玉川神社社殿修復落成記念碑
御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)(大国主命の第二神開拓の神) 大山咋命(おおやまぐいのみこと)(五穀豊穣の神)
東玉川神社は清流多摩川と平行した、自由通りに位置し、風水の龍脈にあたります。当神社は今から約二百有余年前に、長野県の諏訪大社から御分霊を勧請し、鎮守の神と崇め篤い信仰を受け、代々の神職は氏子、崇敬者の家内安全、農耕繁栄、商売繁盛等を祈願してきました。
尚、現在の社殿は、昭和十四年に渋谷の地より移築されたもので、「新編武蔵国風土記稿」に慶長十年(一六〇五)徳川二代将軍秀忠の頃と記された由緒ある建物です。
向拝の天井には、「火焔龍神」の絵が水墨で描かれ、左下に弘化元年(一八四四)と著されております。約四百年の風雪に耐えた社殿は、青銅の屋根が腐食、瓦の破損、拝殿の扉などが傷み、その修復を総代会で決議し、奉賛会(鈴木幸雄会長)を結成、五ヵ月間にわたる工事も無事修復を終え、十月二十四日落成奉告祭を斎行いたしました。
大神様の御神徳のお陰はもとより、氏子崇敬者の真心の結晶であります。ここに、多額奉納者の芳名を記し、顕彰いたします。
平成十一年十一月吉日
宮司 関根光男 謹書
<引用ここまで。東玉川神社社殿修復落成記念碑より。>
記念碑はちょっと読みづらいです。
関連してそうな記事。
レンズレビューの記事になりますが、社殿の移築元である渋谷氷川神社を訪れたときの記事になります。